翻訳と辞書 |
清朝統治時代 (台湾) : ウィキペディア日本語版 | 清朝統治時代 (台湾)[しんちょうとうちじだい]
台湾の清朝統治時代(しんちょうとうちじだい)とは、清朝(当時の中国)が鄭氏政権を倒して台湾を編入した1683年(康熙22年、永暦37年)から、日清戦争の敗戦に伴って清朝が大日本帝国(当時の日本)に割譲した1895年(光緒21年、明治28年)4月17日までの時代である。 清朝は台湾についてほとんど投資を行わなかったために発展は遅れたが、清朝が台湾を領有した当初から、米穀が豊富にとれたために、福建・広東の穀倉と称された。さらに19世紀には茶・砂糖黍・樟脳・鉱業の生産地として発達し、出荷地として都市化も進み、帝国主義時代には台湾民主国が成立する背景となった。 == 19世紀以前 == 建国以来反清勢力の撲滅を目指して来た清朝は、「反清復明」を掲げる台湾の鄭氏政権に対しても攻撃を行い、1683年に台湾を制圧して鄭氏政権を滅ぼすことに成功した。だが、清朝は鄭氏政権を滅ぼす為に台湾島を攻撃・制圧したのであり、当初は台湾島を領有する事に消極的であった。しかしながら、朝廷内での協議によって、最終的には軍事上の観点から領有することを決定し、台湾に1府(台湾)3県(台南、高雄、嘉義)を設置した上で福建省の統治下に編入した。ただし清朝は、台湾を「」としてさほど重要視していなかった為に統治には永らく消極的であり続けた。土牛溝によって番界という台湾原住民の生活域と漢人の生活域をわけ〔康熙61年(1722)年に初めて画定,漢族の進入・開墾を法的に禁止。〕、台湾原住民を化外の野蕃〔初出は牡丹社事件の清朝の官吏である〕として放置し続けてきた。一方で漢人は番界に土地を借り開拓は続き徐々に原住民の生活域は圧迫され、その度に番界は策定しなおされたが、台湾本島における清朝の統治範囲は島内全域におよぶことはなかった。なお、現在、中華民国政府と中華人民共和国は、清朝が台湾のみでなく釣魚島(尖閣諸島)にも主権が及んでいたと主張している。 この時期は海禁策がとられ、渡台は男性のみに限られていたが、一般にこの時期に大量の密航が行われたとされている。例えば1759年の一年間に拿捕された密航は25件、逮捕者は990余人であった。人口は増加しつづけ、1811年には195万人に到達した〔人口調査については問題が多く、によれば19世紀初頭まで信頼できる統計はない。〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「清朝統治時代 (台湾)」の詳細全文を読む
スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース |
Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.
|
|